価値観の発展的回帰(あるいは回帰的発展)が必要だと思うのです。
日本古来の風土共に育ってきた道徳観や人生観、自然観などをベースに
グローバル社会に通用する新しい価値観を模索していく必要があると思うんです。
富国強兵に端を発して150年、欧米的合理性や拝金主義の色彩がずいぶん強くなって
しまいました。
欧米に追い付き追い越せでアメリカに挑戦して負けて、今度はアメリカのもとで
経済的発展を実現しました。
モノとカネを追い続けて、ほとんどの国よりもそういった面では豊かになりましたが、
さて、幸せか?と聞かれると多くのニッポン人は言葉に詰まる状態でしょう。
その一方、経済力2位が、中国に抜かれ3位になると凋落だとか、
未だに過去の価値観から抜け出せなくなっている。
つまり、1980年代までの130年くらい追い続けてきた、
目標というか大テーマといったものを喪失してしまい、
「でも、おカネだけを追い続けるのも違うんだよね、
あーでも何なんだろう?」
というのが今の日本の現状だと思うのです。
中央集権型の統治方法、
教育の制度、
安全保障、
食糧、
などなど多岐にわたり対策が必要だとは思うのですが、
いったん、社会の最小単位である「家」に目を向けてみたいのです。
実は企業でも同じようなことが起こっていて、
売上も利益もがんがんに伸びるときには声にすることがなかった理念
成長が止まると、何のため?とはたと気がつく人が多くなり
収益成長以外の存在理由が必要になり、理念やミッション、ビジョンなどを
求められるようになりました。
でも実は、二宮尊徳が「理念なき経済は犯罪、経済なき理念は寝言」言っているように
最初からこの2つは大事なのです。
翻って、家に戻りましょう。
核家族化が進み、道徳や生活の知恵、死生観といった世代伝承が激減しています。
2年ほど前から「家訓」が重要なのではないかと思うようになりました。
たとえば
「ゴミをまたぐな」
実際のゴミもそうですが、小さなことを捨て置くな、人が拾わない些細なことを大事にしなさい、
という風にいろいろと解釈できます。
「質素に行きよ」
今回の震災では、被災地の方々はお金持ちもそうでない人も多くのものを失ってしましました。
避難所では3月11日以前にお金持ちだったかどうかはあまり意味がなくなってしまいました。
おカネがなくても、楽しく生きていけるかどうか、こういうことが詳らかになっているのだと
思います。
人生いつ、何が起きるか分からないから、もしものこと、その最たるものは死ですが、
そんなを考えながら生きていくことが良く生きることにつながのだよ。
ところが、お金持ちになっても贅沢になればなるほど失うことが心配なるだけ。
だから、質素に暮らすことで失う不安もないし、儲けたお金は生きたお金として
どうやって世の中にお返ししようかと考えれば、むしろ楽しいのだ。
なんてことを言っているのでないでしょうか。
家訓というのは、風雪に耐えた深いものなんじゃないかと思うのです。
それに、男女が結婚して、子供が出来て、子供の教育をしますが、
家訓があって、子供だけでなく、大人もそれを守ると、
大事なことがぶれなくて教育上もいいのではないかと思えてくるのです。
こんな風にいろいろな家の「家訓」を学び、その解釈を深め、効用も考えてみると、
こんなにいいものなのか!?というふうになるんじゃないかと思えるんです。
「日本家訓研究所」なんて作ってみようかなと。
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